これは、まだ特別支援教育が始まる前で、息子が小学校二年生の時の話。私が何年もの間、話すこともできなかったショックな出来事です。
一年生の1年間は、まるで息子と担任(特学)の先生がシンクロしているような、とても喜ばしい状況で過ごしていました。大学で障碍児教育を学び、養護学校の経験もあるという、専門的な知識を持った先生と初めて出会ったことで、すっかり安心ししてしまった私は、このまま6年間が過ぎるものだと思っていました。ところが、二年生になって担任が変わり、その先生は別の学校で特学担任の経験がありました。でも実は、それまでのクラス担任の時には、クラスをまとめきれず学級崩壊を起こしているような先生でした。最初から不安はあったのですが、決まってしまったものはもうしかたないので、あきらめ半分、わずかな期待を半分持って、1年が始まりました。
4月の終わりにあった春の遠足で、すでにその後の1年が見えてしまいました。家から持って行った水筒を、出発の時に、息子が学校に忘れてしまいました。遠足の間は、先生方のお茶を分けてもらって我慢していたようなのですが、学校に帰って来て、すぐに家に帰れると思っていたのを、水筒を取りに教室に戻らなくてはいけない、と言われた途端、爆発してパニックになってしまいました。先生はその状況にどう対処していいのかわからず、オロオロするばかりで、怒っている息子をそのままの状態で、何とか家まで送ってくるのが精一杯でした。そして翌日、息子は初めて「学校行かない」と言いました。
その時は、その一日だけで、次の日からは学校へ行ったのですが、7月にあった授業参観で、私は愕然としてしまいました。特学での個別授業の参観だったのですが、去年のその様子とはまるで比べものにならない程、息子は落ち着いていないのです。原因は、授業の主導権が先生にではなく息子にあることと、何よりもその時間の授業の準備が前もってできていないのです。授業中に次の課題の準備を始めるため、息子はその間待っていなくてはいけなくて、そこでもう緊張感は切れてしまい、一度切れてしまったものはそう簡単に戻せません。それを言葉だけで戻そうとするので、当然、授業は成り立ちませんでした。そして、それを連絡帳で知らせた時、返ってきたのは特学の担任からの「自分は専門の勉強をしていないので」という言い訳と、交流学級の担任からの反論でした。
その交流の担任の先生というのは、その年に異動してきた先生で、前任校で自閉症の子を特学で担当していました。それがとても上手くいっていたらしく、そのやり方をそのまま息子にも押し付けて、その通りに特学の担任にやらせようとします。問題のありそうな子は力で抑えようとする先生でしたが、息子だけは障碍があるので特別扱いです。同じことをして他の子を怒鳴っても、息子には優しく叱ることもしません。そんな様子を見ているクラスの子供たちは、すっかり息子を『特別な子』とみるようになってしまいました。去年は同じ友達だったのに…です。そして、表立ってではないのですが、小さなイジメも受けるようになってしまいました。
春から夏休みにかけて、何度か校長先生と教頭先生に私の不安や不満を話しました。改善策を考えてくれたようなのですが、全く効果はなく、というか、話し合いの段階から常にはぐらかされるような返事しかなく、まるで方向がずれている考え方で、一向に改善される様子は見られませんでした。その時の話で、「もし何かあったら直接校長先生に連絡する」ということになっていたので、ある日私は校長先生に電話をしました。それは、運動会も終わり、やっと息子が極度のストレス状態から解放された頃で、連絡帳の内容に「息子が誰かを叩いた」とか「パニックになった」とかという先生からの連絡が続いた時でした。確かに息子の行動には問題がありますが、その原因を全く探ろうとせず、何の対策も考えようとしていない事に、とても腹立たしさを覚えました。「もうすでに二年生になってから半年が過ぎようとしているこの時期に、まだ何も息子のことをわかっていない状態なのは、いったいどういうことなのか?パニックになったと言って息子を責めるだけなら、特学にいる意味が全くない!」と訴えました。そして、その日の夕方、担任の二人の先生が揃って、いきなり我が家にやってきました。
「自分たちの何が間違っているのか?」「どこが気に入らないのか?」「自分たちは特学の経験がある」と言います。私は恐くて震えながら、「おかしな特別扱いをして欲しくない」「去年と同じ状態に戻して欲しい」と話しましたが、全くわかってもらえませんでした。最後に特学の担任が「私はどうしたらいいのでしょうか?」と言って帰られました。そして翌日、教頭先生から「何があったのか、話を聞かせて欲しい」と連絡がありました。その時の出来事を教頭先生に話すと、「この問題は自分に預けて欲しい」という返事でした。最後の頼りのつもりでお願いしてきました。
ところが、その後も何がどう変わったわけでもなく、とうとう息子は週末になると学校へ行けなくなるという日々が続きました。おそらくその引き金となったのは、息子が家にいる時に、先生方と言い争いになってしまったからだと思います。息子はその話を間違いなく聞いていました。不安になっても仕方ありません。10月から1か月半、月火水はなんとか学校へ行けますが、木金になるといけなくなってしまい、でも私は休ませてはいけないと思ったので、一日のうちの1時間でもいいから、私も一緒に学校へ行きました。保健室や特学で過ごすことはできましたが、交流の教室へは絶対に行こうとしませんでした。
いつまでもこんな状態を続けているわけにはいかないと思い、そんな息子を一番心配してくれていた、1年生の時の特学担任の先生に、最後の手段という思いで相談しました。先生はそれまでも、何とかしたいといろいろやってくれていたのですが、そのすべてが交流の担任によって退けられ、口出しすることも拒否されていました。でも、もう猶予はなくなり、それでダメならもう養護学校へ行くしかないと言いました。そこで考えてくれたのは、その時、別の特学の担任をしていたその先生が、一日に1時間だけでも息子の個別授業をする時間を作ってくれるというものでした。しかし、これまでの学校の対応を考えた時、それがすんなりと認められるとは思えませんでした。でも、私たちにとってはそれが最良で最後の改善策でした。なんとかそうできるようにしなくてはいけないと思い、息子の入学時にとてもお世話になり、私たちにも理解を示してくださっている市教委の先生に相談に行きました。やはり息子の様子を心配してくださっていたその先生に、これまでの経緯を話、自分たちを後押ししてくれるようにお願いしました。その日のうちに学校に出向いてくださり、管理職もようやく真剣に考えてくれたのか、なんとか良い方向に動き出してくれました。
改善策は単純でした。息子の学校生活は交流学級ではなく、特学に重きを置くこと。特学の運営は、特学を担任する二人の先生で連携すること。息子の様子を見ながら、交流学級では無理をさせないこと(要するにこういう時間にいつもトラブルが起きていたわけです)。時間割は最低限、朝伝えた通りにすること(これまで直前になっていきなり変更してパニックの原因になっていました)。そして私が校長先生と教頭先生にお願いしたのは、もう二度と安易な考えで特学の担任を決めないで欲しいということ。個人的に一人の先生だけを責めるつもりはありませんが、その先生が四年生の時に担任だった中一の長女は、真っ先に「弟を見られるわけがない!」と断言しました。結果はその通りになった訳で、たった12歳の子供でも判断できることが、学校の管理職には判断できなかったと言うことです。1クラスを持たせると学級崩壊を起こして、30人の親から苦情が出るのであれば、一人の子の担任にしてしまえばいい・・・そう考えたとしか思えませんでした。
そういう悪い状況になった時に、一年生の良い状況で過ごしていた1年間には見えなかったものが、初めて見えてきました。これまでの話でわかるように、学校の中での障碍児教育への考え方があまりにもお粗末でした。それから、他の保護者からも特学が理解されていないことがわかりました。見た目には何も変わらない子のために、一人の先生が付きっ切りでいることを、「ずるい特別扱い」だと思う人がいることが表面化してきました。それらの解決策として、何よりしなくてはいけないことは、私自身の勉強でした。息子のことを、障碍の説明も含めて、私の言葉で話せるようにならなくてはいけないと思い、自閉症の勉強を始めました。
この時を境に、自閉っ子の母としての自分をスタートさせたような気がします。皮肉な話ですが、この出来事がなければ、今の私はいないと確信しています。